殺戮荒野(Killing Field)からの生存 コン‧ボーン著
著者のコン・ボーン氏が共同通信社のプノンペン支社で働いているときに、AK47という中国製のライフルを中心とした軽装備の赤色クーメルが、アメリカ製の重装備を備えるロン‧ノル軍を破り、プノンペンに入城した。共同通信支局があったラ‧プノン‧ホテル(旧オテル・ロワイアル)の前の赤十字のテントでは、シソワット家筆頭のソマリタ殿下と、その娘、息子が保護を求めていた。赤色クーメルは北京から流している「国民連合開放ラジオ」で処刑リストを公表しており、ソマリタ殿下の名前が含まれていた。現地のカンボジア人はロン‧ロル政権の腐敗に不満があり、赤色クメールによる「解放」を喜んだ。そして地獄のような殺戮が始まった。
コン‧ボーン氏は実際に見聞きしたことを書いており、「なぜ虐殺が起きたのか」という自分の疑問に大きな示唆を本書は与えてくれた。一番、印象に残ったのは、赤色クメールの統治は高度な管理社会であったこと。「オンカー」というリーダーのもと、「チュローブ」という子供の監視‧スパイを使い、また「サハコー(人民公社)」をいくつか集めて「コミューン」という単位になり、コミューンはコミューン‧チーフにより管理される。
「再教育キャンプ」という名の刑務所は、軽度‧中度‧重度などに分かれて管理され、対象者は「知らないと開けられない缶」などをどのように扱うかなどで、服従のみができるのか、それとも反抗するだけの「知性があるか否か」を判断され生死が決まる。またその判断の材料としてコン‧ボーン氏の過去の経歴・行動を正確に把握しており、監視‧管理、そして評価と執行と、800万人の国で、200万から300万を殺戮するには高度な機構が必要なことが見て取れる。
「なぜ殺戮が起きたのか?」。自分の答えは、為政者の目的は人民を管理すること。その目的を達するための最も直接的な方法は、「服従すれば生かし、反抗すれば殺す」。イスラム教に「コーランか剣か」という絶対服従の言葉があるように、殺戮とは服従を強いるための一般的な手段。為政者にとって、人民を支配するための手段として殺戮が有効な手段である限り、殺戮がなくなることはない。異民族の侵略のあと、服従しないものを選別、処刑するというプロセスは、古代から存在し、そして近代では日本軍のシンガポール華人虐殺、台湾での国民党による本省人に対する白色テロなど、殺戮は服従を強いるための一般的な手段。仮に、赤色クメールも殺戮なしに、完全にすべての人民を服従させる「他の手段」があったならば、選別‧殺戮をする必要はないだろう。
服従を強いるための手段として殺戮を用いる。それは現代でもなお、戦争が政治的解決手段として認められ、かつ国内でも凶悪犯罪に対しては死刑を用いるなど、先進国でも殺人は手段として認知されている。服従を強いる為政者にとって、重要なの監視をし、服従しないものに共通する特徴を正確に認識して、速やかに非服従者を排除するすること。
為政者が民衆に服従を強いるための手段としての「殺戮」を避けるには、服従強制の手綱をゆるめ、かつ個人の権利を尊重する思想‧機構が必要だ。古代ローマでは「クレメンティ」という寛容の精神、異民族であっても元老院に入れる、より民主的な政治機構。古代アジアでも儒教の「仁、恕(ジョ)」の精神、仏教の慈悲が挙げられる。そして現在では「人権」という概念ではないか。現代においては、民衆を効果的に統治するため手段は「監視→選別→排除」だけではない。日本が敗戦後、アメリカの統治を受け入れ、服従的な地位にあるのもパックス‧アメリカーナの服従の中にも自主‧自立が保証されているからであろう。
「なぜ殺戮が起きたのか?」それは民衆に服従を強制する為政者にとって、有効な手段だから。また同様のロジックは為政者内部でも適用されるため、高圧的な思想を強制するグループでは内ゲバ(もしくは監視→選別→排除のプロセス)が起こりやすいと考える。高度に情報化される現代・未来においては、上記プロセスの執行は精緻を極めるだろう。だからこそ為政者の性質・資質自体(もしくは理念)が、これまで以上に重要となるのではないか。