Get Things Right

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正義の構築

トヨタの社長がブレーキ問題で、米国議会に招聘されたときの映像とその後のLarry Kingライブの映像を見たとき「ああ、これが政治なのか」と思うことがあった。それは

・今回の件は運転手が悪いと思いますか?
・今回はジャパンバッシングだと思いますか?

などの質問を豊田社長が受けたとき。この質問はYesと言うと相手を責めることになり、Noというと自分の非を認めたことになる。どのように答えても「正義」は相手にあることを示すことになる。トヨタとしては事故車を回収し、原因を追求、そして対策を打ち出すというのが道理であるが、一刻の猶予を争う場合では道理を持ち出すことが「正義の構築」の妨げになりえる。冷静に分析すれば「悠長」と非難されこともありえるからだ。

原因と対策という論理ではなく「私の名前はTOYODAだ。すべてのトヨタ車には私の名前が刻まれている」のように「名を汚さない」という問題におきかえて、トヨタブランドの信頼回復を図った戦略は論理的ではないが、合理的とでもいうのだろうか。

自動車の不具合は、技術的な問題だが「多くの人命が危機にさらされている」という文脈では人心に「安心感」を与えることが最優先。テレビに映った際、トヨタの社長は頼りがいがある人のように見えるか?外見はどうか。賢そうか?会議では決して解決されない事実を尻目に、政治はパフォーマンスの場となる。そんな現実に自分は軽いショックを受けた。

現実世界には「正義」という客観的事実は存在しない。「殺人」ですら戦争という文脈では「英雄」となる。戦争では「文脈」が重要だからこそ戦前、戦中そして戦後を通して「正義の錦」が徹底的に語られる。先日ルース米国大使が広島平和式典にて献花したがこれは新しい文脈(何が正義かという)の構築の一環と捉えられる。

欧米。とくにキリスト教は「正義」の文脈作りに一朝の利がある。一神教であり、古くからイスラム教をはじめとしていろいろな場で「正義」を競い合ってきた。ロード・オブ・ザ・リングなどの映画で敵として描かれている異形の集団イメージは、多分にキリスト教が異教徒と「正義」を競い合ってきたノウハウが刻まれている。

そのことから「正義」であるためには
・ 美しいこと。ハンサムという意味ではなく、何らかの形で人間の美意識を刺激するもの。(パターン認識か?)
・ 一貫していること(人間は変化が嫌い)
・ 人々がそれを「正義」と受け入れることで「心地よい」と思えること。優越感、安心感などがもたらされるもの。
・ 権威が感じられ、人々がそれを受け入れることで「思考(疑い)」が停止できること
などが思いつく。

世の中「何が正しいのか」検証・証明できないことに溢れている。政治問題などはその典型だろう。経済問題などでも究極的には以下の二点に絞られるがどちらが正しいとは一概には言えない。

・人間の欲望を抑える→社会主義、宗教→社会の革新を止める→全員で貧乏になる(平等)
・人間の欲望を満たす→競争、教育  →社会の革新を進める→富める人から豊かになる(格差)

この場合前者は一旦貧しくなると豊かな人が「正しく」見えてくるため「比較対象」の情報が入ってこないように情報統制が必要。日本にある(北)朝鮮学校から韓国学校への転入が、その逆より圧倒的に多いのは結局のところ「豊かさ」がもたらす「正義」への後押しあるのではないか。

「正義」は結局のところ「決め」の問題であり、それが人間の感情に響くがどうかが重要だ。「美人」の基準が江戸時代と現代では異なるように、「正義」が受け入れられる際にはその時代の社会的文脈が存在する。またそれとは別に「豊かさ」や、「歴史」のように人々に憧れ、畏怖の念を抱かさせるものは時代に関わらず重要になる。「神」などの概念は「正義の構築」には都合が良いが誰が、どう解釈し、どう伝達するのかに議論の余地が入る。「神道」を担い、「万世一系」とされる日本の皇室が明治維新で政治の前面に出てきたのも、「正義」を強く必要としたその時代の要請といえる。