311 THREE ELEVEN 東北地方太平洋大地震
金曜日。上海の同僚がメッセンジャーで「日本に地震が起きたらしい」と知らせてくれた。しばらくしてオフィスのテレビでBBCが流されると、その映像に圧倒された。渦を巻く海、木より高く、車よりも早い津波。だれもがその映像に釘付けとなる。
土曜日。UstreamやBCC放送から目が話せない。BBCは当事者ではないからか、ストーリーとして目の引く原発危機ばかり取り上げ、無責任な発言が目に付く。
Ustreamのチャットやツイッターをみて気がついたのはデマが多いこと。ひたすら不安をあおる発言が多い。当初は不安をあおって何の解決になるのかと頭に来た。しかし不安をあおる人は、そうすることで自身の不安にカタルシスを得ているとのだ思うと、避けられないことだと分かる。人に不安を与える人、人に安心をもたらす人。災害を前にして、人間が両者に分けられる。
自分に何ができるのだろう。Ustreamのチャットに何か書き込むべきか?そんなことを考えて何もしていなかったら、NHKの発表を英語で訳して書き込んでいる人がいた。
日曜日。ジャパンプラットフォームに10万円募金をした。コイン以外の金額での募金は初めてだ。
月曜日。午後、シンガポールの同僚が回ってきた携帯メールを見せてくれた。「日本の原発の影響が、モンスーン風に乗ってシンガポールまで来ているので、外出する際は体を覆いましょう」と書いている。不安はどこまでも伝染し、デマを生むことに改めて驚く。思い出したのは、昔「チェルノブイリの原発の影響を受けている、自分たちの世代は30歳まで生きられない」と誰かが言っていたこと。30歳が遠い未来だった子供心なりに不安を感じたからこそ、今日その記憶が蘇ったのだろう。
たとえ50年に一度の準備をしていたとしても、100年に一度、1000年に一度ということが存在する。人生は100年に満たないため、50年に一度を想定して準備しても、現実はそれを加味しない。
想定して対策を練る。金融危機や災害にたいして、現在人間がとれる最良の手段だ。問題はその想定の範囲が常に50年、100年、1000年、10000年と限りがあること。「想定外です」事が起きた後で人は言う。
会社で社員が「電車が遅れて、遅刻しました。」という。これは「電車が遅れる」ことが想定外であることを示唆する。「電車は遅れることもある」と前提を変え、想定内にすることだが、社内で一人だけその前提に立つことは難しい。文化としてその前提を「正しい」と認めることが必要だ。
「津波の影響で、原発の多重防護が働きませんでした」。「津波」が想定外であったのだろう。天災に際して「想定」は脆い。だから異なった手段が必要だと思う。自分はそれが「理解」だと考える。たとえばマントルの移動も流体現象をシミュレーションで予測するなど。過去100年の観測は、1000年に一度の想定には使えない。しかしシミュレーション予測にその制約はない。
大きな災害に対して、ほとんどの人は小さな貢献しかできない。だからどれだけ、その小さな貢献が積みあがるかが重要になる。小さなことでもいい。貢献しよう。それが結果を大きく変えることを信じて。
そして、今現在文字通り命を懸けて、懸命に作業にあたられている人々がいることをここに明記します。