これから「政治」の話をしよう
社内で多くの部下を持ち、チームを引っ張る立場の人は、チームの進むべき方向を明確に示さなければ、チームを導いてくことはできない。方向が曖昧、ブレるなら人はついてこられないからだ。
人が進むべき道を求めて、意見を尋ねにくる。「どうしたらよいのですか?」と。迷える子羊達とは的を射た表現だ。
迷える子羊達は「AとBには8割の相関が見受けられ、Aが原因となってBに到る可能性は否定できない」などという「科学」を求めているわけではない。「Aをすれば、絶対Bになる!」とう断定こそ求めている。断定が迷いを消し去り、安心をして一歩を前に踏み出せるからだ。
「本当にAならばBですか?」、「そこに不必要な前提があるのでは?」、「考慮の対象にもれていることがあるのでは?」。実際は前提、考慮の対象に限りがない。だから正確を追求すれば、曖昧にならざるを得えない。しかし人は正確なことより、決定的なことを望むものだ。「原発は安全なのか、危険なのか?」。限りのない可能性に対して、論と策を尽くすより「何々だから安全です」と一言、いってもらえれば落着く、救われるのだ。たとえそれが神話だとしても。
決定的な発言(deterministic statement)は偏見、ステレオタイプ、迷信、そしてトートロジーなどよって容易に構築ができる。「日本人は何々だ(偏見)」。「星座が乙女座だから、今日は赤い服が幸運をもたらす(迷信)」、「不可能なことは絶対にできない(トートロジー)」など。迷信、偏見には決定的な因果関係の記述という使いでがある。だから政治の場では重宝される。
科学的な態度は「相手が正しい」という可能性について開かれている。断定的な発言(決めつけ)は道を譲らない。だから政治の世界では断定的な発言(決めつけ)に「科学的態度」は道を譲ることになる。レッテルを貼るだけで、政治的な決着がつくこともある。政治においては賢いもの、正しいものが常に勝者になることは限らない。政治的議論の場とは「理解できない」ことが強みとなり、浅はかな因果関係でも即座に、そして断定的に口にする者が強者となりえる舞台といえる。
政治は科学ではない。芸術なのだ。