Get Things Right

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 インド デリー・アグラ

同僚の結婚式に招かれて、家族でインドまで行ってきた。シーク教徒の結婚式に出席するのは人生に一度だけではないかと思う。本当に映画みたいだった。新郎が楽団に囲まれ、白い馬に乗って式場に到着する。楽団はラッパ隊と太鼓隊の2つあり、互いに競いあう。親戚は楽団員の前にお金を示し、良かった方に渡す。楽団員たちもヒートアップして競い合う。

式場の近くには、シーク教徒の寺院がある。最初は寺院で新郎だけがお祈りして、そのあと式場に移動し、また寺院でグルと一緒に儀式をする。そして最後に、式場に戻る。寺院に入るには頭に布を被らなければならない。シーク教徒は戦闘員の歴史を持ち、新郎は手には剣をもっていた。頭にターバンを巻いている家族とともに、自分の家族が写真に入るなんてと感慨深い。

インドは多様性に満ちていた。人種的にも、人間的にも。前払いタクシーを使って、ホテルについた際、チップをあげたら遠回りしたからと、チップの増額を要求してきた。自分が、前払いでしょというと引き下がる。最初に交渉しても、ダメ元で相手も再度食らいついてくる。そうかというと、お金に執着を見せず、行動する自分のインド人同僚もいる。

アグラにあるタージマハルにも行った。ちなみにムガル帝国のムガルはモンゴルの意味。ツアーを組み、高速道路で片道3時間。ガイドさんは驚くことに日本語が話せて、阿部元総理大臣もガイドしたことがあるという。また大理石のお店でも、日本語を話せる人がおり、タージマハルと同じ大理石のお皿をおみあげに買った。カーペット屋にもよったのだが、何も買わないと最初は笑顔だったのが、急にしかめっ面になり、怒ったような仕草を見せる。期待が裏切られ、買わないと分かると本当に心理的に苦しみを感じているように見えた。笑顔で話していたあとなので、その代わり様が印象的だった。同僚のインド人は、台湾では買わなくても、嫌そうな顔をしないと、しきりに感心していたが、その意味が分かる。裏と表を作る人と、作らないように生きてきた人という意味でも、インドには多様性がある。

インドは多様性がありながら、どうやって統一を保っているのだろうと昔から、不思議に思っていたが、今回の旅で、幾つかの仮設を思い立った。一つは言葉を曖昧にすること。例えば同僚の宗教は、戦闘員の部族なため、斧や剣を祀る宗教を崇拝しているという。ただカテゴリーがないので、ヒンズー教に分類されているそうだ。ヒンズーという言葉も実は、中身は大きな多様性をもつ。中国語といっても実は英語、ドイツ語以上に離れている方言がありながら、中国語といったり、中国人といったりとしているのに似ている。言葉の定義を曖昧にすることで、内包できる範囲を広げている。またあとで解釈の変更ができるし、衝突の原因になることを避けている。

もう一つは、宗教が盛んということ。 心に宗教が宿っているため、攻撃的になる気持ちを抑えることができる。ある女の子が手を動かして、軽く自分の子供にあったとに、すぐ様、祈るような仕草を見せた。同僚に聞くと、それは「神様、ごめんなさい、許してください」というような意味だそうだ。そんな行為が、無意識に反射的に出るくらい神を意識しているなら、衝突は起きにくい。

インドの発展の遅れを見て、多様性はコストになるとも思った。もし英語だけを共用し、宗教を廃し、政治的自由をなくし、経済成長だけを是とするメンタリティになれば、経済成長は早い。そしてだから中国は経済成長が早いのだと思う。多様性を切り捨てているから。多様性と効率性にはトレードオフがある。

一連の旅で思ったのはインド人は顔の表情が豊かであること。結婚式でも楽団員に、お金をやる際の親戚の眼つきは「やめなさい」と意思表示や、「もっと盛り上がれ」という意思表示は本当に目に力が入ていた。そのようなコミニケーションだと相手の感情が近く感じ、人とつながっているという気持ちが持ちやすい。

また事前に、多くのインド古典、特に初期仏教聖典を読んでいたため、インド人の多様性を目の当たりにして。どうして人々は異なるのだろうと思わずにはいられなかった。人は生まれた時は自我がなく、個性の違いも小さい。その後喜び、悲しみなどの感情を通じて、自我を形成する。もし貧しく、それに苦しみを感じているなら、人は苦しみから逃れるために、試行錯誤、例えば嘘をついてみたり、より表情を変えてみたり、少しでもその場で利益を増やそうとする。そして、それが人格となる。もしくは勉強して貧しさから抜けだそうとする。そしてそれもまた人格となる。これらの選択は無意識になされることが多い。犬や馬がムチでうたれ、苦しみを感じ、行動を変えていくように、人間も物理的、社会的、心理的に苦しみを感じ、対処を模索する。苦しみ、痛みをどう感じ、どう対処するのか。それが人格を形作る。

ある組織では、言葉の定義が曖昧で、昨日言ったことと、今日言ったことがまるで違うのが当然という事がある。嘘つきばかりを集めているのではない。苦しみを感じ、言葉に妥協し、空虚な言葉を多用するものが生き残る環境だから、人はそうなるのである。大概は無意識のうちに。

参考
http://donicchi.jp.msn.com/goodwill/