Get Things Right

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リーダーシップ論

リーダーとは方向と勢いを与える人。方向については人に理解してもらうことが第一歩となる。 「理」という文字は玉と里。里は田と土で、耕して筋目をつける意。玉(石)に筋目をつけることが字源。模様がない玉の表面に筋道をつけるように、リーダーシップも言語を使って人に、方向(筋道)を見えるようにする。

このようにリーダーシップをとらえると、自分はブッダ孔子、もしくはキリストなど、人々に長年の間、物事の見方を提供してきた宗教家や思想家こそ、最も影響力のあるリーダーと思う。またリーダーシップを語る際、どのようにして方向を人に見せ、共有し、引っ張るか(例えば話し方、承認、ラポールなど:Efficiency)だけでなく、その方向自体が正しいものかどうか問題(例えば人格、モラル:Effectiveness)まで触れないと、リーダーシップとしては片手落ちになる。しかし前者と後者は全く異なる問題なため、同時に扱うのが難しい。リーダーには良いリーダーと悪いリーダーがいる。そして強いリーダーと弱いリーダーがいる。一番数が多いのは悪くて強い、もしくは良くて弱いリーダーなのではないか。

自分が在籍した外資の会社では、リーダシッププログラムが充実しており、リーダシッププログラムに特化した人も複数在籍していた。レベル1リーダー、レベル2リーダーなどと定義されており、さながらドラクエのよう。社内でリーダーシップが語られると、とくに売上がないサポート部門では1)リーダーとはこのようなものだ、2)私はそうしている3)だから私がリーダーだと我田引水になり、どうしても自分のアピールに使われる。

またその会社での自分の上司はリーダーシップオタクであった。時折、自分がレベルいくつのリーダーに該当するアンケートをとり、リーダー論について熱く語るLeadership, L for lead, E for excellence, A for….等々、語るたびに単語が変わっているのは愛嬌か。リーダー論とは自分がリーダーだと考えることによって自己愛を満たすことができる格好のトピックなのだ。だから、自我・自己愛の強い人がリーダーシップを語ると、対象が自分自身に引きもどされ、底の浅いリーダーシップ論となる。

あんなにリーダーシップを熱く語り、チームの為に働き、そして自分はリーダーに相応しいと、学級委員の経験から猛烈にアピールする自分の上司は、 リーダーとなり、愛されたいという強い願望によって突き動かされた強力なリーダーであった。人々は彼に従った。軽蔑しながらも。自己愛は最後には自己保身を最優先させるものだと人は知っているからだ 。面従腹背によって支えられるリーダーは人を幸せにしないリーダーだ。 だが(小さな)目的の達成という意味では使い道がないわけでもない。だからリーダーシップ論は難しい。