新約聖書 その3 学び
聖書を読む前に、2つの疑問があった。一つは李登輝前総統が指導者の条件として「信仰心」を挙げ、李登輝自身も理屈っぽい性格のため、信仰心を持つのに苦労したという。なぜ彼は信仰を求めたのか。 もう一つはなぜ奇跡など、合理的と思えないことが書かれている聖書を読むことで、非常に優れた業績や知見を残している人がいるのかということ。
自分はその答が、聖書の扱うテーマの深さにあると考える。
まずは偶像崇拝。人は救い、確実性を求めるために、何かにすがる。生まれたとき、非常に無力であり、母の庇護にすがることでしか生き延びれない赤子は、大人になっても属する社会の浮き沈みに翻弄され、そして究極的には大地の恵みや宇宙の運命とともにある。そこで自分で創りだした偶像にすがり、「だから大丈夫」と安心を得る。真の確実性は、客観的事実を俯瞰し、真理を知り、因果を見通すことが大事だと知りながらも、主観的に単純化、歪曲した虚像に すがることで安心感を得る傾向は、無力感が支配するほど拭いがたくなる。
次に、自我。自分という個人に自信を持つ。そして自分が属する集団に自信を持つ。自己愛、個人・集団ナルシズムともいえるこのテーマは、近代では国家ナショナリズムや戦時中の日本、ドイツの全体主義につながる大事なテーマ。
12部族と分かれていた民が、最も優れていると信じる神を信奉し、一つの民(ユダヤ人)となっていく。また未開のヨーロッパでもキリスト教を媒介として、新しい集団意識が開拓された(ドイツ人など)。現在でもアメリカの貨幣 には「In God We Trust」と刻まれ、同様の物語は続いている。ちなみにハリウッド映画「Avengers」でもキャプテンアメリカの盾が、北欧神話の神であるソーのハンマーを跳ね飛ばすシーンなども、アメリカが神の庇護にあり、その神は北欧の神よりも「偉大」であること暗示している。
いつの時代でも、排他的な集団(ネオナチや、外国人排斥)は社会において、個人レベルでの自己実現が抑圧されている層であり、ナルシズムを自分の属する集団に託することと、排他的な傾向はセットであることが多い。この事自体は、生存競争に基く、自然な傾向だが、問題は集団ナルシズムを守るため(自我を保つため)に、客観的事実を歪曲してしか認識できなること。
キリストの時代、神殿は神に保護されている特別な場所と考えられていた(神殿派によって)。キリストの死後、無謀にも独立を求めローマ帝国に反乱を起こし、結果として敗北、神殿は破壊された 。神殿が破壊される前に、キリストが隣人愛を唱え、敵まで愛せと言ったり 、自分たちの「神」をキリストが侮辱したとして、熱狂的にキリストの死を求刑した大衆の描写、そして神殿や特定集団・場所の特権的意義の否定など記述は、 集団ナルシズムに命を賭して対抗した、キリストの預言者としての活動と解釈できる。
また上記例は戦前、日本を神国と信じ、アメリカの生産力の巨大さという客観的事実を、精神論で歪曲し、戦いを挑み敗れていった日本の歴史と、集団ナルシズムというところで、共通項があると考える。また今後の日中両国の動向を理解するにも、多くの示唆を与えてくれると思う。
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