Get Things Right

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台湾人

台湾に来て、一番驚いたのは、ある人は自分のことを中国人といい、ある人は自分のことを台湾であり、中国人でないと言うこと。色々と尋ね、自分でも考えてみたが、結論らしきものが見えてきたので、書き留める。

結論としては、「嫌悪」と「優越」という感情の楔をどのように埋め込まれたかに依存すると考える。人には「自己愛」があり、例えば「中国人」というものに、「嫌悪感」がある場合、自己認識は自己愛のため「台湾人」となる。両親が国民党とともに台湾に移住して きた場合、その嫌悪感は少ないだろう。変わったところでは蒋介石の孫の一人が、自身を台湾人と宣言し、中国人ではないと言っているところか 。

ここでの要点としては嫌悪感や優越感は感情であり、その元となるものはとるに足らないものでよい 。例えば、私達はXXXを食べている。君たちはXXXでなくYYYを食べているという、些細な事でも人は他人と差別化でき、優越感や嫌悪感を保つことができる。文化、文明と言われているもので、お辞儀や、スプーンの上げ下げ、ドアの開け閉め、話し方など、理性的に考えたら合理性はないものが多い。それはプロトコルを守ることで同じ仲間という集団的アイデンティティを形成し、同様の行動を取らない人々を、野蛮人(本能を管理できない人 )と線引する役割を担っているということができる。

些細なこと(例えば髪型や物語を信じる)でも優越感や嫌悪感を保つことができる。だから生活水準が低く、非常に貧しい国家でも「武士は食わねど高楊枝」と言わんばかりに、自尊心を保ち、集団意識を形成できる。それが例え独裁国家で、自由を奪われていても、そこに何らかの説得さえあれば。(その説得が情報開示等で、信じられなくなれば、裏切られたと感じるだろう)

「嫌悪」と「優越」がキーワードだと考えたのは、外国人と結婚して外国にすむ日本人女性とその子供たちの話を、いくつか聞いたからから。

例えば、中国と台湾。 外国で暮らし、現地の男性と結婚している日本人女性の子供たちは 母親が日本人のため、日本語と現地の言葉を上手に話す。そこで、中国の場合、子供たちは日本人としての意識が高い。しかし台湾の場合、子供たちは中国語を主に話し、意識も台湾人に近いという。両者とも日本人の母に持つとはいえ、普段は現地の子供たちに囲まれて生活しているのだから、何かしら普段の生活の中で、自我をどちらに傾ける力(power of the balance)が働いているのだろう。それは疎外感かもしれないし、失望や優越感など様々な感情の積み上げであると考える。 少なくとも中国では生活環境(空気や治安)や反日番組などで、母親が周りに嫌悪感を抱く機会が多いのではないか。

環境は大事。上記、仮説が正しいとしたら、物語などは子供にはいいかもしれないが、大人に話しても、あまり優越感の対象にならない。自分は国が優秀な人を集めるという観点から、本質をついたスマートな仕組みにあふれた制度。上質な労働環境、生活環境。そして究極的には、その文化、言葉を通すことでのみ、タブーがより少なく、高みに根ざした視点をもち、目が開かれるがごとく、真実を真実として認識、知ることができ、誰もが納得する正義に対して理解ある環境が構築できればいいと考える。

参考

モーセと一神教 (ちくま学芸文庫)

モーセと一神教 (ちくま学芸文庫)