Get Things Right

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世俗的価値と非世俗的価値 という対立する視点

ソクラテスは名声、富など世俗的な価値を追い求めるには権力に近づくことだという(ゴルギアス)。独裁国家なら 権力者におもねり、おべっかをつかう。独裁者は通常、邪悪なので邪悪さを真似、同様に邪悪になる必要がある。一方、民主主義においては、一人の人間が大衆一人一人の理解に従って、言葉を選び、状況と真実を諭す時間はないし、また大衆もそれを望んでいない。詭弁を使い、理解したと大衆を信じこませ、また大衆におもねり、おべっかをつかい、大衆の人気をとることが権力の道である。

いわば「正しい」ことは世俗的な価値、名声や富そして権力などを得ることに繋がっていない 。事実、ソクラテスは大衆におもねることを拒み、正しいことを主張し、無実を明らかにしながら、大衆に迎合せず不遜な態度をみせたことで死刑となった(ソクラテスの弁明)

大衆や権力に迎合することを拒み、彼が自分の死を決断した理由に「死後の世界」がある。嘘をつき、魂を汚すことは、死後神の裁きの前にして適当ではないと。彼は1)神は真理を知り、2)真理は人間には見え難く、3)大衆には真理は浸透せず  4)死後の世界では神(の裁き)によりの真理が浸透しているという条件のもと、現世で真理を貫き、死後での裁きに重きをおいて死を選んだ。

現世で真理や正しいことが浸透しないのは 、人間の持つ世俗的な価値にある。例えば異性にモテたい、美味しいものを食べたい、名声や富、そして人を支配する権力を持ちたいという欲望は、人間の動物としての本能に根ざすものであり、「死」から逃れるため生来から備わる人間の動物としての特性である。 死を忌避する動物的本能が中心にあれば、正しいことの実践は二の次になるのは道理である。

死の恐怖を以ってすれば人は支配でき、そのことが軍事力を求める理由となる 。独裁国家で宗教が禁止され、世俗的な価値が奨励されるのも、富->衣食住->生命の維持という連鎖を利用し 、富や衣食住に影響をあたえる事で、間接的に「死の恐怖からの逃避」という人間の動物的本能に働きかけ、支配するため。もし大衆の心に「宗教」が介在し、永遠な死後の世界を信じるなら、権力者は 大衆を支配しようとすれども、世俗的価値ではなく宗教的価値を通して 、物質的・世俗的な媒体からの働きかけが、必ずしも有効ではなくなる。 人が世俗的価値を中心におき 、人間の動物的本能に根ざした欲に渇望してこそ、権力者は大衆を支配する術を持つ。世俗のものこそ権力者が支配するものだからだ。

ソクラテスの「死後の世界」に軸を移し、死を選んだ行動はキリストが死後、神によってもたらされる復活と永遠の命を信じ、自らエルサレムに乗り込み、死刑になることを知りつつも、自らの 主張を続けたことに通じる。両者とも現世の生き残ったもの勝ち、取ったもの勝ち、支配したもの勝ちという側面を善とせず 、永遠な死後の世界(もしくは神の視点)から、現世を見て思考し、行動したことに共通項がある。世俗的な価値から一歩離れた視点を持つことは、現世において正しいことを貫き通す為に大事なことだ。

世俗的価値を考えるとき、以下の留意点が挙げられる:

1)世俗的欲の強さは「死からの忌避」であり満たしても、満たされることがなく、逆にそれが強くなる傾向がある
2)世俗的欲は健康状態、年齢などに依存する
3)死は貴賎問わず、全ての生き物に 平等に訪れる

仏教ならばこれに4)諸行無常であり、万物は変化し続けると付け加えるだろう。

死後の世界に軸足を置き過ぎると現世での生活がおぼつかない。世俗的価値に軸足を置き過ぎると、人の一生には終りがあるという事実に直面する 。世俗的価値は死の恐怖に力を得る動物的欲求であり、それにどっぷりと浸かっている間は、冷静に正しく、現世を認識することが難しい。

人生でどこに軸を置くのか。そのことで一貫性の意味が変わってくる。世俗的、非世俗的価値の両者を意識してこそ、世の中の事象をより深く理解できる。また、非世俗的な価値の深化や緻密化は必ずしも、現世においての利益と繋がっていない(むしろ対立を明確化することもある)と知れたのは幸いだ。やはり哲学や宗教ばかりではこの世の中を理解することにはならない 。自分は2つの対立する価値を深く理解し、時と場合に応じて世の中を重要な要素を中心に再構築し、 捉えられるようになれればと考える。

参考

ソクラテスの弁明ほか (中公クラシックス (W14))

ソクラテスの弁明ほか (中公クラシックス (W14))

キリスト教の輪郭

キリスト教の輪郭