人の光と闇
人は人を殺す。他の動物でもありえるが、人ほど状況応じて 、組織的に同種を殺す動物もないのでないか。
なぜ人は人を殺すのか。一つには人は社会的動物だということ。社会を成すため、集団で暮らし、他人を気にしあいながら生きている。もう一つは人には攻撃性があるということ。普段は抑制機能として同情心があるが、一度「怒り」が発生すれば、相手に対して同情心が消え去り、攻撃性が前面にでて、殺人を厭わなくなる。同情心は、共有しているものが多い集団ほど生成しやすく、集団内では攻撃性が抑制される。だから人は集団対集団で戦う。
人は社会的動物で他人を常に意識して且つ攻撃性があり、怒りが 同情心という攻撃性抑制装置を瞬時に外す 。自分はこの意味で、人は生まれながらにして殺しあう要素があると思う。
台湾の歴史でも、平地に住んでいた原住民が、客家が来た時に、山に押しやられ、福建人がきたら、客家が山に押しやられる。スペイン、オランダが攻めてきて、日本が占領したら、外省人がやってきた。新しい侵略者は常に現地人を殺してきた。
中東のイスラム国は、奴隷制という前近代的な制度を復活させた。かれらは SNSやネットなど最新の技術でテロを組織化している。最新の技術が現代の秩序を壊すために使わる。
SNSなどのネットも、匿名性に助けられ「声の大きい人」の意見が蔓延しやすい環境をつくり、思想・思考の上で多くの人が単純化された非理性的なものに影響されている。
仏教の教えも、悩みを消すには、最初は1)原因と結果を見極め、原因を左手で掴み、右手で刈り取るように取り除いていく、という教えから最後には2)南無阿弥陀仏と唱えましょう、大衆化されたものとなった。
人は殺しあうから殺しあう動物だというように、教えも広がりやすいから、広がりあったと言える。
希望はある。パリの銃撃事件の時、人々は死にさらされながらもお互いに助け合った。東北の津波は携帯の位置情報を解析すると、最初は逃げていたが、直ぐに多くの人が危険を顧みず、助けに戻った人が大勢いたという。第二次世界大戦の末期、ソ連が満州国に雪崩れ込み、死の恐怖にさらされた時、自分の命をさらして他人を助ける人、人の命を踏みにじってでも生き残ろうとする人がいたという。極限の状態でしか見ることができない魂の色がある。殺すも生かすも人間の本分なのだろう。