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旧約聖書

初めて聖書というものを読んだ。まずは旧約聖書から。 西洋というものを理解したい。西洋文明の強さはなぜか。その強さの源が聖書(旧約)を通して垣間見たと思うので、書き留める。

全知全能の神がいると仮定する。すべてを知り、すべてを司る。ではなぜ、モーゼがエジプトを脱出する時、エジプト王の心に介入しないのか。

ヨブという、神に忠実な善良な人間がいた。彼は義人であるが、突如として醜い病気になり、人生が奈落の底に突き落とされる。なぜ義人が苦しむのか。

結論は、神が全能であり、すべてを管理しているなら、すべての事象は管理された対象となり、人間もこの世すべてが、ロボットにすぎなくなる(意義を失う)。だから全能の神を仮定するなら、人間の自由意志が大事になる。そして人間は神と契約を交わすほどに対等で、契約に違うのなら、神に対してすら異議申立てができる。旧約の約は、契約の約。

偶像崇拝を禁止し、神を心の中にのみ存在を許し、自身の自由意志に基づく、自律的行動を通して、神との関係を築く。ここでの偶像は、可視化された崇拝の対象であり、王様や皇帝なども含む。自分はこの偶像にドグマやイデオロギーも含んでいいと思う(文章は可視化されている)。

出エジプト記ならモーゼに率いられ、エジプトを離れた民が荒野をさまよう際、エジプトに戻り、たとえ奴隷の地位でも日々の食事が保証されていた、昔に戻りたいと訴える。しかしモーゼはそれを許さない。そして民が何かにすがりたいとしても、偶像を作ることは死にも値すると断ずる。

創世記ならアブラハムという賢い人間が、異民族を打ち破り、土地と財産を守り築いていく、賢いもの・強いものが生き残るリアリズムの物語。

ヨブ記は、良いことをしたら良いことがおきる 。だから悪いことがおきたなら、悪いことを(隠れて)したのだろうと、因果応報の理論でヨブを責め立てる友人を、それこそ人が神を利用する視点だと神は断ずる 。神の視点は人間の考えを 遥かに超えているのに、それを人間の視点に引き戻していると。

全知全能だからこそ、神は人間の心に介入しない。賢いのも・愚かなのも。意志が弱く、自由意志を発揮できず、偶像にすがることでしか、未来を打開できないのも、強固な意志と、高い能力で未来を打開していくのも。それはすべて人間側に委ねられている。

ただ、旧約聖書は記述している。偶像にすがるものは生き残らないと。

自分は偶像崇拝を禁止する旧約聖書の厳しい態度は、仏教の「自燈明・法に頼れ」の教えと一致していると思った。旧約聖書絶対神を仮定することで、人間の自律性の不可侵性を打ち立てる。仏教は世には道理をあることを強調し、人間の自律性をもってのみ、その道理に沿った生き方ができると語る。

参考:

旧約聖書 創世記 (岩波文庫)

旧約聖書 創世記 (岩波文庫)

旧約聖書 出エジプト記 (岩波文庫 青 801-2)

旧約聖書 出エジプト記 (岩波文庫 青 801-2)

旧約聖書 ヨブ記 (岩波文庫 青 801-4)

旧約聖書 ヨブ記 (岩波文庫 青 801-4)

自由であるということ---旧約聖書を読む

自由であるということ---旧約聖書を読む