Get Things Right

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笑う門には福来る (it is your smile which has brought a happiness)

昼休み食事を終えて職場に戻る途中、公園で一人のインド系の人に呼び止められた。「あなたに近い将来、幸福が待ち受けている。私には見える」と。「え?!」幸福と聞いて悪い気はしない。彼は続けて自分の眉間を指差し「でも悩みすぎていては駄目だ。。云々と」。「(彼)年齢は?(自分)33」、「(彼)子供の数は?」など一通り自分に聞いた後、小さな紙に何か書き落として、クシャクシャに丸めて彼は言う「これを左のポケットに入れておきなさい。きっと、いいことがある」。

自分が「Thank you」といって立ち去ろうとすると、彼は横になって歩き「5以下で好きな数は?」という。自分が「3」と言うと彼は「ポケットには驚きが詰っている」と。「え!?」、自分が先ほどの紙を取り出そうとすると「ダメだ、ダメだ。今は!!」と彼が大きな声をだす。紙を開くとそこには「3」という文字が。「I am a holy man(私は聖なる者)」。彼は静かに断言した。

「No, you are a magician, sorry, I have to go (違う、手品師だ。行かないと)」。自分がその場を立ち去ると「I am a holy man! holy man!!!」と後ろで彼が叫んでいる。

職場に戻り、隣のインド人同僚に起こった事を話すと「例え5分の1だとしても数を当てるのは難しいのでは」という。正直、自分には彼がどのような方法で、数字を当てたのか分からない。振り返れば、事前質問は答えが「数値」になるものばかり。事前分析になっていたのか。また単純にポケットの紙を入れ替えることもできたかもしれない。自分の眉間に指を当てて「考えすぎるな、悩むな」などと言っている間に。また自分が「3」というまで、会話は「数字を当てる」という文脈ではなかった。

「どうやって数を当てたのか分からない」事実は、彼が提供する答え「I am a holy man」を否定するの不利だ。だからといって、彼を信じてしまう日本人は少ないと思う。思いつく理由は:

1.同様の数字当て手品が、テレビで放映されている。
2.路上で、いきなり話しかけてきて「神がかった」ことを言う人(東京は多い)は信用できないという常識
3.諺「犬も歩けば棒にあたる」、「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」という江戸時代の知恵
4.(自分が)否定できないからといって、「正しい」ことの証明にならない。(背理法は因果関係が「正しい」ことの証明にならない。限られた「正しい」ことにのみ有効)

日本は「奇跡」が起こることを「正しいことの権威」にしない社会が構築されている。同様に「権力者」であることの正当性を「カリスマ・威風を備える」ことをではなく、「民主主義的な手続き」に置いている。この二つは守る価値がある大切な社会的資産だ。

「迷信深い」社会ならば、「正しい」ことは「ばちあたり」でないこととなるだろう。「違う、手品師」と相手のトリックも知らずに述べるなど許されない。

最後に、この経験を振り返って考えるのは「悩まない」ことの重要性。自分はあの時悩み深い顔をして歩いていたのかな?自分の表情は自分では分からない。ただ「悩み深い顔」は「つけこみ易い」顔に見えるのだろう。笑顔で町を闊歩すれば、「幸福を語るペテン師」は寄ってこないかも。