Get Things Right

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 人間理解 其の二

生まれたばかりの赤ちゃんが泣きわめく。周囲の注意を引き、生存のための人生最初の自己顕示だ。

自己顕示の範囲が広がり、それが集団単位になり、集団と集団が熾烈にぶつかり合い、国境が生まれる。

国家はなくてもよいという人がいるが、国家が人にアイデンティティを与える仕組みであると考えれば、それは(現時点に於いて)自然な存在であるといえる。国家と国家はいがみ合うものであり、時には文化の起源や優越を争うものであることも納得できる。

それだけ、人にとって自己顕示と自己肯定は大事なものなのだ。

先週シンガポールの大統領が選ばれた。与党出身が勝ったが、前回の議会選挙と同様、野党も検討した。ちょっと前まで考えられないことだ。与党は建国以来、誰もが認める非常にすばらしい経済発展を成し遂げた。しかし経済成長を優先させる態度は、国民一人一人が「自分が大切にされている」という感覚が薄まる要因にもなる。国家は会社であるべきか、それとも家族であるべきなのか。そんな議論を聞いていると人間理解の重要性を改めて感じる。

第二次世界大戦前まで、多くの国が植民地支配下に置かれた。そららの国々では、自分たちが話す言葉とは異なる言語で統治が行われ、異なる民族が統治者として君臨した。歴史が示すように、その後、植民地は独立し国家となり、自身のアイデンティティを自身で構築するようになった。統治というものにおいて、人間の自己顕示、肯定を否定することは致命的なのだ。

以前、近所の人たちの家族とテーブルを囲んで雑談しているとき、ふと「シンガポール人は多くがバイリンガルだし、英語も上手だけど、日本人は英語は全然駄目ですよ」とシンガポール人を持ち上げるつもりでと発言したら「それは自分の国の言葉を持っているからだよ」と一気に場が冷たくなった。英語が駄目という卑下が、そのように取られるとは考えもしなかったので大変驚いた。

先日、初めてパソコンをMacにしたら英語入力のシンボルがアメリカ国旗だったので、シンガポール英語に変えようと言語設定をみたら、イギリス、オーストラリアはあるのにシンガポールがない。それはシンガポールで話されている英語の存在が、構造的に無視されていることを意味する。どんなによく日常会話で使われている単語でも、米国で使われてなければ、赤い下線が文字の下で踊り、間違っていると鳴り続ける。米国国旗のもとで。残念。