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文明の贈り物 その一 概念の限界と可能性 

足が速いことで知られるアキレスが亀と競争した。ハンディをつけるために亀はゴールから半分のところ(P1)からスタートした。アキレスはあっという間に亀がスタートした場所(P1)についたが、時間が経ったのでその間に亀は前に進みP1より前の場所(P2)にいた。同様にアキレスがP2にたどり着いた時には亀は前の場所P3に進んでいる。この過程は永遠に続き、アキレスは亀を追い越すことができない。

上記の話はゼノンのパラドックスといい、似たような話は他にもある。長さ1メートルの線がある。それを半分にして、50センチとなる。また半分にして25センチとなる。この過程は永遠に続く。

これらパラドックスの意味するところは「概念は現実ではない」ということ。例えば1メートルの線の場合、どんなに細い紐でも、厚みがある限り永遠に折りたためることはない。厚みは倍々と増えていき、いつか折りたためなくなる。先のパラドックスは現実を扱っているのでなく、概念(もしくは言葉)だから永遠に折りたためるということが成り立つ。

同様に、アキレスの例も時間と距離を、現実から別個の概念として、それぞれ切り出し(言葉にし)(アキレスの)距離が進む、(アキレスと亀の)時間が進む、だから(亀の)距離は更に進むという風に、距離と時間の概念を独立に扱うことで、アキレスは亀においつかないというパラドックスを生んでいる。

ギリシャ文明のすごいところは、このように言葉や概念で議論を進めていく時、概念は現実から切り離されているため、合理的に概念を操作しても結論は現実とはかけ離れるということを明示的に指摘している点だ。概念と現実は異なる。それが限界。そして概念だから無限という操作が適用できるという可能性に気づいていたこと(例えばアリストテレス)。

インド文明にも同様な萌芽見られる。光を当てて、闇がなくなったとしてもそこに闇が存在していたということではなく、また消えたという事でもない。すべては人間の感覚器官を通しての現象であるということを原始仏教では述べている。魂は永遠かという形而上の概念的議論は現実の問題に何ら影響を及ぼさないとし、議論に参加しなかったり。言葉や概念の限界を理解し、言葉や概念の限界を超えるような命題は扱わないという態度をとっている。

中華文明も言葉や概念に限界があるということを意識し、逆に積極的に活用した例がみられる。例えば、馬にかかる通行税を、白馬は馬であらずといって税金を逃れようとする故事がある(韓非子)。これは詭弁だが、文字の上では白馬は馬でない。だが目の前に白馬がいればそれは馬でないとは、思わないだろう。

このように古代文明は、概念と現実の違いを指摘し、これはある意味、合理的思考の限界に気づいていたとも言える。似たようなところで、解剖学者の養老孟司氏が「スルメをみてイカがわかるか。論文をみて患者を理解できるか」という問題提起に通じるところがあると思う。合理的に考えても、未来が予測できなかったり、結論が間違っている場合には、議論に使われている言葉や概念が、実は原因と結果のように切り離せては考えてはいけないものであったり、概念的にカブる部分があるからではないだろうか。

ただ上記に述べたような厳密さは、実際の議論の場では無意味であろう。合理的な思考の絶対性を信じ、AだからB、BだからCと概念を適当に並べて、相手を説得力し、自分の欲しい結果を手に入れることは、政治力に直結するからだ。詭弁の方が強いともいえる。だから議論する相手によって、真実を探す賢者の議論と、相手を打ち負かす覇者の議論を使い分ける必要がある。そして、後者のみが全てである人々がほとんどな国々がある一方、日本は比較的前者のマインドセットが大きいがために、ノーベル賞などの科学的貢献が可能となっているのではと自分は考える。


参照:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BC%E3%83%8E%E3%83%B3%E3%81%AE%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%89%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9

放送大学 数学の歴史 長岡亮介

原始仏典 (ちくま学芸文庫)

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中国古典からの発想―漢文・京劇・中国人

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