Get Things Right

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 311 3年目でマイルストーンの欠如に気づく

2011年のあの日、同僚がフロアの上に付いているテレビをつけると津波の映像が流れていた。津波被害は珍しくないと思い、惨状を理解しないまま、会社を後にした。後日、福島の原発事故の映像を見て、天災が人災の様相を呈する。ヘリコプターが放水のため原発の上を飛び、それが何か重大な意味を持つかのごとく、固唾を呑んで画面に張り付く。氏曰く、「セミのションベン」とは的を得ているが、ことを理解しないままでは、「セミのションベン」が希望であり、事の是非を決めるものだと単純に信じれた。

多くの電源車が現場に到着したが、仕様が異なり使えなかったという。原発の電源仕様にもとづいて、電源車を要求し手配するものではないのか。またその場で電源を要求にそうようにする仕組みは作れなかったのだろうか。東電も外部のベンダー頼みで、運用のみの知識でことの対応に必要な知識と能力に欠如が見られた。テレビに出ていた有名大学の教授はメルトダウンはないと、コメントしていたが実際にはメルトダウンは起きていた。嘘を付いているのではないと思う。分からなかったのだろう。自分が間違っていることもを含めて。自分がわからないことがわからないことは、詰め込み勉強において「理解」するのに最適だ。

原発事故が起きた後、責任者たちは「想定外」といった。では誰が「想定」の範囲を決めたのだろう。どようような根拠を以って。「想定外」という言葉は免罪符なのだろうか。それよりも、よりどうしたら正しい「想定」が得られる、プロセスに辿り着けるのか踏み込んだ議論はあったのだろうか。瓦礫を片付けた後、また人々は津波がきた低地に住むのだろうか。同じ津波が来ないと信じて。原発も同様に続けるのだろうか。大丈夫と想定して。また同様の災害が起きないと。これらの「想定」に対して、未来に対して当然に予想される結果は誰が責任を持ち、正しく、より好ましい方向へ人々を導くのであろうか。因と果をきちんと踏まえて、考えて行動する教育は施されているのか。

リーダシップ不在のまま、大きな枠組の中、方向性が見えないまま3年が過ぎた。リーダシップがあり、ビジョンがあったなら2年前に建てたビジョンに対して、今年は3年目のマイルストーンを検証する時期であろう。しかし大惨事から機会を得ず、3年目を迎え、原発の推進と反対に分かれ、お互いが自分の我を通そうとするだけでは、時の浪費である。

日本の最大の問題は、意思決定やグループを代表して交渉するポジションに誰を選ぶかという過程において、「最適な決定」をする能力以外に、あまりにも別の事、例えば「組織の中から人材を得る」だとか「同じ言葉を話す人から選ぶ」など、島国よろしくオープンで言語化された過程を得ずに行われる現実に、無自覚であることではないか。

より抽象度を上げて、問題を定義し、それにともなうトレードオフを記述して、しかるべき方向性をビジョンとして示す能力、文化が欠如している。いい方を変えれば、「言葉を信じ過ぎることによって(言霊信仰)、言語を軽視している」。ある程度抽象度を上げて、言葉の意味を空にしておき、実現・実行で補う戦略、戦術への考慮が欠けていると思う。

2年前の出来事を、人災と定義し、正しい「想定」と正しい「想定」への「過程」が欠如したことを直視し、この問題を是正するための実行計画が必要だ。さもなければ、原発の是々非々を議論しても、結局は「想定外」でしたという言葉が未来において免罪符となる。