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 日本語の漢字の読み方

日本語の漢字の読み方はなぜ、音読み、訓読みから始まり複雑なのか。例えば「道」。「ドウ、ダウ、ダウ、タウ」と音読み。「みち」という訓読み。時には現代中国語の音「タオ」なども加え6種類。日本語学習者から見れば、無意味に複雑に見える。だが実はそこには重大な意味がある。

結論を述べる前に一つ例をあげよう。以下は集英社のマンガ「ワンピース」23巻に出てくるMr2ボン・クレーの名言。ここでは最後の「道」以外、「みち」と読み、最後の「道」は「ウェイ」と読ませ「オカマ道」を「オカマウェイ」と作者、尾田栄一郎氏は新しい漢字の読み方をしている。

男の道をそれるとも
女の道をそれるとも
踏み外せぬは人の道
散らば諸共
真の空に
咲かせてみせようオカマ道

結論は2点にまとめられる。一点目は、中国語のように漢字を一字一音とすると、常に「人の介入」、即ち新しい音に正しい漢字を決めるため 常に権威者の介入を必要とすること。もし英語のアルファベットやひらがな・カタカナならば文字に落とすための規則・ルールを学び、それに従って聞いたまま文字に落とせば良い。しかし漢字の場合は、新しい音を正しい漢字に落とすためにはルールではなく、まず時の権威者の介入を必要とする。

日本語は中国語と異なり、一字一音の縛りがなく、上記例のように読み方が個々人に委ねられている。そのため漢字の読み方が複雑となるが、それは自由を得た代償とも言える。

二点目は、一字一音の原則に従うとは漢字の音が、常に新しい音に取って代わられ、昔の音が残らなくなるということ。日本語は豊かな古典を持ち、日本語の古代音が現代まで伝わっている。朝鮮語などでは漢文を中国人のように読み、中国音に取って代わられたため、古代朝鮮語の多くの語彙で古代の読み方が失われている。

日本でも奈良時代の教育は唐と同じ教科書を使い、唐音をそのまま使用して遣唐留学生の卵を日本で教育していたのだから、古代日本語の音、例えば「やま」が「サン」に取って代わられ「やま」という音が忘れられる可能性がなかったわけではない。しかし菅原道真遣唐使を廃止して、国風文化が栄えたことにより、古代日本語が現代まで伝わることとなった。

加えて、漢文を読む時も中国人のようにそのまま読むのではなく、漢文書き下し文という技法が開発され、漢文を訓読みで読むことが出来るようになった。そのことで「大和言葉」(訓読み)が残り、時には新しい訓読みが追加され、漢文を読みながらも、大和言葉を発展させる土台ができた。

古代の言葉とその音が残っているということはその民族が独自の歴史を持つことの証明となる。翻って古代の音がなくなり、中国語の音と限りなく近い読み方しか残っていない場合は、「君の民族も中国人でしょ」という言葉が現代において限りなく現実味を帯びる。その意味において現代、沖縄方言を残すことは非常に重要だ。

自分は古代中国が中原を中心として一律に広がっていったのではなく、混沌とし、多様性あふれる世界だったと考えるが、史記を書いた司馬遷が中原を中心とした世界観を持ったのは、記録の手段が表意文字の漢字であり、古代中国に存在したであろう言語の多様性を、司馬遷に伝えることができなかったからではと考える。歴史に「もし」は無いが、もし中国の古代文字がアルファベットのように表音文字ならば全く異なる歴史と民族性が生まれていただろうと夢想する。

最後に日本語の漢字の読み方が、一字一音の取り替え式でなく追加式であったことにより、古代より庶民が文化に参加する余地を残した。例えば万葉集万葉集には天皇から下級貴族、防人などの庶民の歌った和歌が収集され、古代日本の方言を記録する貴重な資料ともなっている。翻って中国の漢詩は作者の大部分は宮廷詩人など高級官僚となっている。天皇と庶民の歌が一緒に並べられた万葉集。突き詰めると、漢字の読み方に自由が許容されていること、またひらがな、カタカナのように限られた規則を学べば、自分の考えを表現できること、これらは日本語に存在する、個人への自由・権威付与である。「漢字の読み方を一つにして」という態度は、自由はいらないという態度に似ており、ひいては民族の存亡に関わる。

参考
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E8%91%89%E9%9B%86
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2%E8%A9%A9

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